小説/SF
葬送のフーガ(11)
[連載 | 連載中 | 全17話] 目次へ
エリサの死を受け入れられずに人を指さすハル。恐れていた象徴としてのユノの傷に向き合ったことで決意を固めたハルが向かった先は……。
ハル(三)
ほとんど駆け足で病棟を通り抜ける頃には、手の震えが抑えがたいものになっていた。動悸は相変わらず激しく、今にも肋骨を突き破って飛び出してきそうだった。
大きく息を吐き出して、俺は待機させていた車に転がるように乗り込んだ。
「……出せ」
そう伝えるのが精一杯だった。何とか動悸を抑えようと呼吸を整えていると、運転手が短く尋ねた。
「よろしいのですか」
もちろんその意味は面憎いほど明白だ。本当なら俺はもう一人ここに連れてくるはずだったのだから。それなのに一人で戻ってきたことを、わざわざ確認しているのだ。
「つべこべ言わずにさっさと車を出せ!」
乱れる呼吸の合間に俺は叫んだ。苛立って、前のシートを足蹴にする。運転手がその音にびくつくのが見えて、ますます腹が立ってくる。
ようやく動悸が収まってきたところで、俺はもう一度大きく息をつくと、シートに深く座って足を投げ出した。
固く握りしめていた手を開くと、冬だというのに脂汗でじっとりと湿っている。さっきまで震えの止まらなかったその手は、まだ柔らかな肌の感触を覚えていた。――その肌に刻まれた罪の傷痕も。
世間の目を欺いてまで行われたあの手術によって、いったいどれだけの人間が傷ついたのだろう。なぜ、止めることができなかったのだろう。
(――わたしには子供が産めないって……だからもう必要ないんでしょう?)
確かにユノの子宮は子供を産むことができなかった。だがそれ以前に、俺自身にも本当は子供を作る能力がないということを、一族はひた隠しにした。そうしてユノばかりを責めた結果がこれ。
決してユノが悪いわけではない。それは充分わかっている。真実を知ったユノが家を飛び出したくなる気持ちも、わからないわけではない。だから連れ戻して、ちゃんと話すつもりだった。――それなのに、今も俺の頭を占めるのは、ユノとの未来よりも過去のエリサのことなのだ。
(――せめて私だけでもこの子を人として認めてあげたいのよ。臓器を抜き取ることしか誰も考えなかった、この子のことを……)
誰もが生ける臓器としか思っていない中、エリサだけがリノを人間として見ていた。そう、エリサはそういう女だったのだ。まともな知能すら持たないリノの命を惜しみ、一方で残酷な真実から目隠しされたままのユノを哀れむ――そんな女だったのだ。
(――医師として、手術は万全を期すわ。それだけ伝えてちょうだい)
だから自分の心に背いてまで、あんな手術に立ち会った結果、エリサは壊れてしまった。自分の罪をユノの腹に押し込め、縫い合わせた時、エリサは自分が永遠に赦されないことを知ったのだ。
――だからこんなにも震えが止まない。
動悸は収まってきたものの、俺の指先はいまだにかすかな震えを残していた。それほど、俺は恐ろしかったのだ。ユノの腹に刻まれた、エリサの残した罪の痕と向き合うことが。
俺はシートに首を預け、天井を向いたまま瞑目した。
――俺はずっとこのままなのだろうか。
エリサの代わりに、エリサの負った罪の重みに耐え続けなければならないのだろうか。罪の証を目にするたびに、灼けつくような胸の痛みと凍えるような全身の震えを味わわねばならないのだろうか。
たとえ婚約解消になり、ユノとの縁が切れたとしても、互いがこの世に生き続ける限り永遠に苦しまねばならないというのか。
「……そんな馬鹿なことがあってたまるか」
俺は思い直したようにそうつぶやくと、運転手に行き先を告げた。
――すべてを、終わりにするのだ。
このままでは過去に囚われたまま、身動きすることができない。だから縛めを解かねばならない。そのためには。
「――エリサを取り戻す」
その決意を口にした時、車は大通りを曲がって閑散とした小路に入っていった。
ハル(四)
白夜亭と書かれた看板は小さく、店構えはそれに見合うほど小ぢんまりしている。吹けば飛びそうな、実にささやかすぎる店舗だ。これでは生活費を稼ぎ出すこともままならないだろう。昨日来たばかりではあるが、いかにもセリトらしい店だと改めて溜息をつきながら、俺はドアをくぐった。
昨日とは違って店の入り口の方から入ると、ユノと同級だという少年が出迎えた。
「いらっしゃいませ――……あ」
すぐに俺のことがわかったのだろう。来店者の顔を見るなり、少年は言葉に詰まってしまったようだ。
「すみません、その、ユノは――」
「いないことはわかってる。だが、今はユノを迎えに来たんじゃない。セリトを呼んでくれ」
そう告げると、少年は何か言いたげだったが口を閉ざし、バックヤードの方に向かっていった。
確か、セリトが抱えることになった遠縁の子供だ。しかし、こんな堅気とも言えない商売しかできないような男が、子供一人をまともに育てることができるのだろうか。むしろ自分のできない家事を押しつけるために、ただでハウスキーパーを雇い入れるつもりではなかったのだろうか。そんな疑念がふと湧いた。
俺の知る限り、セリトは決してまともとは言えない男だった。頭だけは無駄に良いのだが、人間として最低限備えているはずの生活能力が著しく欠けている。エリサの話によれば、学生時代のあいつの家はとても人が住む空間ではなかったそうだ。人道的なエリサの献身のお蔭で、何とかゴミ屋敷の中で窒息死せずに済んだのだ。
一つ息をついて、俺は閑散とした店内をぐるりと見回した。ここの従業員は店主のセリトと、さっきの子供の二人しかいないはずだが、店の中は整然と落ち着いた雰囲気を保っている。これがセリトの店だとは実に奇跡としか思えないが、どうせ掃除はすべてあの子供がやっているのだろう。そもそも「片づける」という概念を持たないセリトに、客を迎え入れる空間を作ることなど不可能だ。その身に合わない、立派な子供を手にしたものだ――そんな皮肉な考えに、俺は苦いものがこみ上げてくるのを感じた。
そう、セリトという男は怠惰の罰を受けてのたれ死んでいるのがお似合いなのに、ぎりぎりのところでなぜか必ず手を差しのべてくれる人間が現れるのだ。
本来なら、エリサを失った時点であいつの命運は尽きるはずだったのに。それなのに、突然現れた子供があいつの命を救ってしまった。だからエリサがいないこの世界で、あいつはまだ何の罰も受けずに生き続けている――。
黙ったまま店内を歩き、奥のドアを一つくぐったところで、俺はどうやらこの建物の店舗から住居部分に足を踏み入れてしまったようだった。薄暗い廊下の行き当たりに、昨日訪れた殺風景な玄関が見えた。
まったく、何と狭い敷地なのだろう。俺の家が普通ではないと知ってはいても、こうして実際に目にすると、溜息を禁じ得ない。店舗の入り口から裏の玄関まで三十歩もないなんて、俺の自室の半分もないではないか。こんな狭苦しいところにエリサが押し込められなくて、かえって良かったのかもしれない。
傘立てとサンダルしかない玄関を三歩で通り抜け、俺はリビングらしい部屋に入った。リビングであるとすぐに断定できないのは、もちろんその狭さのせいだ。あの小さな店舗の半分しかない一室を、リビングと呼ぶにはどうにも抵抗がある。本当に、こんなところに住み続けていて気が狂わないのだろうか?
座り心地の悪そうな安っぽいソファに腰を下ろそうかためらったところで、不意に俺の目にそれが飛び込んできた。
全体的にグレーで統一された無機質な部屋の中で、まるでそこだけ切り取ったかのような、眩しいほどの白。
狭い部屋の片隅を占める、その白い空間は――。
「突然の家庭訪問とは、あまり感心できないね」
不意に、背後から静かな声が上がった。振り向くまでもなく、俺はその声の主が誰であるかわかった。
「セリト……」
案の定、セリトは感情のこもらない目で俺を見下ろしていた。いつだって……出会った時からそうだった。空洞のような、表情に乏しいこの目を見るたび、俺は腹立たしくなるのだ。
初めて出会った時、セリトは十八歳で俺は十二歳だった。あれから年を経ても俺の体は成長することなく、年齢差と同じように身長差も決して埋まることはなかった。だから互いに顔を合わせる時は、必ずセリトが俺のつむじを見下ろし、俺は奴の顎を見上げることになるのだ。その立ち位置は、十五年経った今も逆転することはない。社会的な立場も名声も、その真逆だというのに――それでも俺はセリトを見下ろすことができないのだ。
エリサを奪い取った、この男を。
そのことが、どうしても許し難いのだ。
「訪問なんぞするつもりはなかったが、どうしても用があったからな」
「それならおとなしく店でお茶でも飲んで待っててくれれば良かったのに。こんな狭苦しい家を見たって、何も面白いものはないよ」
まるで俺の心情を読み取ったかのような台詞が、小憎らしい。
だが、俺はあえて無視して、単刀直入に告げることにした。
「――エリサを返してもらおう」
その言葉に、セリトが小さく息を飲むのがわかった。
「……どういう意味だい?」
「そのままの意味だ。エリサの遺骨を返してもらいたい。エリサを弔うのは我々一族の役目だ」
俺がそう告げると、しかしセリトは憎たらしい、薄い笑みを返した。
「弔う、だって? 遺体を原子レベルにまでバラバラにして、灰一つ残さない原子葬を推進する一族が?」
「――エリサは特別だ! 本来、おまえのところになど置いておくべきではなかったんだ! こんなところじゃ、手向ける花すらろくに買えないだろう」
セリトはいつも俺を苛立たせる。なぜ、罪深いこの男のほうが、俺よりも泰然と構えているのだろう。自分の罪から目をそらし、平気でくだらない台詞を吐けるのだろう。
怒りで目眩を起こしそうな俺に、セリトは短く告げる。
「無駄だよ」
「何だと?」
「エリサはもう、どこにもいない。骨の欠片さえも」
いったい、こいつは何を言い出すのだろう。俺は嫌な予感に駆られ、全身の皮膚がざわざわとあわ立つのを感じた。きっと顔色も蒼白になっているだろう。それを嘲笑うように、セリトはさらに続ける。
「ねえハル、君はどうして僕が白葬を始めたのか、わからなかったのかい? それとも、あえて考えようとしなかったのかな?」
俺の顔色が変わってゆくのを眺めながら、セリトは部屋の片隅を指差した。
灰色に染められた狭い世界に、そこだけ切り取ったかのような、眩しい白。
小さな白い花を植えた、無機質な白い箱を。
「持っていくというなら、そうすればいい。ほら、それ――そこにある鉢、同業者の君なら何だかわかるだろう? あれがエリサの墓だ。骨はもうとっくに分解され尽くしているだろうけど」
背後で、息を呑む音が聞こえた気がした。だが、俺にとってはそれどころではなかった。
「ふ、ふざけるな……っ!」
気づいた時、俺はその鉢植えを足蹴にして引っくり返していた。弾力のある箱は割れなかったが、床に跳ね返り、中の土が点々と飛び散った。
これが――こんなものが、エリサの墓だと? どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだ。
エリサは俺の世界のすべてだった。
それを最初に奪ったのはこの男だ。
当然のこと腹では許していなかったが、渋々でもあきらめたのは、エリサがそれを望んだからだ。俺はエリサを悲しませたくはなかったのだ。
だが、その結果がこれ。
この男はエリサを奪い、殺し、そしてあろうことか、こんなちっぽけな箱に押し込めたのだ。
ふざけるな!
ふざけるな!
「――いい加減にしてください!」
強い力が、俺の手首をいきなり後方に引っぱった。前のめりの体勢になっていた俺は、逆方向に引かれ、危うく転びそうになってしまった。
「人の家に押しかけて、何を暴れてるんですか! さっさと帰ってください、迷惑です!」
険しい顔つきでそう叫ぶのは、セリトが保護している子供だった。
名は――確かレイ、だったか。
ユノの滞在先ということで、俺は家の者にこの子供の素性もあらかた調べさせていた。ユノも一人の女である以上、万に一つの間違いがあってはいけないという配慮のもとで。
そして、報告を受けて俺は予想外のことに驚いたのだ。
まだ十八にならないこの子供は、人としても不完全であるという事実に。
「中途半端な存在のくせに、余計な口出しをするな、この中間性(インターリム)が!」
その台詞を投げつけた瞬間、その子供の顔が強ばるのを俺は見た。
そして同時に、俺は左頬に熱さと痛みを感じた。
ほとんど駆け足で病棟を通り抜ける頃には、手の震えが抑えがたいものになっていた。動悸は相変わらず激しく、今にも肋骨を突き破って飛び出してきそうだった。
大きく息を吐き出して、俺は待機させていた車に転がるように乗り込んだ。
「……出せ」
そう伝えるのが精一杯だった。何とか動悸を抑えようと呼吸を整えていると、運転手が短く尋ねた。
「よろしいのですか」
もちろんその意味は面憎いほど明白だ。本当なら俺はもう一人ここに連れてくるはずだったのだから。それなのに一人で戻ってきたことを、わざわざ確認しているのだ。
「つべこべ言わずにさっさと車を出せ!」
乱れる呼吸の合間に俺は叫んだ。苛立って、前のシートを足蹴にする。運転手がその音にびくつくのが見えて、ますます腹が立ってくる。
ようやく動悸が収まってきたところで、俺はもう一度大きく息をつくと、シートに深く座って足を投げ出した。
固く握りしめていた手を開くと、冬だというのに脂汗でじっとりと湿っている。さっきまで震えの止まらなかったその手は、まだ柔らかな肌の感触を覚えていた。――その肌に刻まれた罪の傷痕も。
世間の目を欺いてまで行われたあの手術によって、いったいどれだけの人間が傷ついたのだろう。なぜ、止めることができなかったのだろう。
(――わたしには子供が産めないって……だからもう必要ないんでしょう?)
確かにユノの子宮は子供を産むことができなかった。だがそれ以前に、俺自身にも本当は子供を作る能力がないということを、一族はひた隠しにした。そうしてユノばかりを責めた結果がこれ。
決してユノが悪いわけではない。それは充分わかっている。真実を知ったユノが家を飛び出したくなる気持ちも、わからないわけではない。だから連れ戻して、ちゃんと話すつもりだった。――それなのに、今も俺の頭を占めるのは、ユノとの未来よりも過去のエリサのことなのだ。
(――せめて私だけでもこの子を人として認めてあげたいのよ。臓器を抜き取ることしか誰も考えなかった、この子のことを……)
誰もが生ける臓器としか思っていない中、エリサだけがリノを人間として見ていた。そう、エリサはそういう女だったのだ。まともな知能すら持たないリノの命を惜しみ、一方で残酷な真実から目隠しされたままのユノを哀れむ――そんな女だったのだ。
(――医師として、手術は万全を期すわ。それだけ伝えてちょうだい)
だから自分の心に背いてまで、あんな手術に立ち会った結果、エリサは壊れてしまった。自分の罪をユノの腹に押し込め、縫い合わせた時、エリサは自分が永遠に赦されないことを知ったのだ。
――だからこんなにも震えが止まない。
動悸は収まってきたものの、俺の指先はいまだにかすかな震えを残していた。それほど、俺は恐ろしかったのだ。ユノの腹に刻まれた、エリサの残した罪の痕と向き合うことが。
俺はシートに首を預け、天井を向いたまま瞑目した。
――俺はずっとこのままなのだろうか。
エリサの代わりに、エリサの負った罪の重みに耐え続けなければならないのだろうか。罪の証を目にするたびに、灼けつくような胸の痛みと凍えるような全身の震えを味わわねばならないのだろうか。
たとえ婚約解消になり、ユノとの縁が切れたとしても、互いがこの世に生き続ける限り永遠に苦しまねばならないというのか。
「……そんな馬鹿なことがあってたまるか」
俺は思い直したようにそうつぶやくと、運転手に行き先を告げた。
――すべてを、終わりにするのだ。
このままでは過去に囚われたまま、身動きすることができない。だから縛めを解かねばならない。そのためには。
「――エリサを取り戻す」
その決意を口にした時、車は大通りを曲がって閑散とした小路に入っていった。
ハル(四)
白夜亭と書かれた看板は小さく、店構えはそれに見合うほど小ぢんまりしている。吹けば飛びそうな、実にささやかすぎる店舗だ。これでは生活費を稼ぎ出すこともままならないだろう。昨日来たばかりではあるが、いかにもセリトらしい店だと改めて溜息をつきながら、俺はドアをくぐった。
昨日とは違って店の入り口の方から入ると、ユノと同級だという少年が出迎えた。
「いらっしゃいませ――……あ」
すぐに俺のことがわかったのだろう。来店者の顔を見るなり、少年は言葉に詰まってしまったようだ。
「すみません、その、ユノは――」
「いないことはわかってる。だが、今はユノを迎えに来たんじゃない。セリトを呼んでくれ」
そう告げると、少年は何か言いたげだったが口を閉ざし、バックヤードの方に向かっていった。
確か、セリトが抱えることになった遠縁の子供だ。しかし、こんな堅気とも言えない商売しかできないような男が、子供一人をまともに育てることができるのだろうか。むしろ自分のできない家事を押しつけるために、ただでハウスキーパーを雇い入れるつもりではなかったのだろうか。そんな疑念がふと湧いた。
俺の知る限り、セリトは決してまともとは言えない男だった。頭だけは無駄に良いのだが、人間として最低限備えているはずの生活能力が著しく欠けている。エリサの話によれば、学生時代のあいつの家はとても人が住む空間ではなかったそうだ。人道的なエリサの献身のお蔭で、何とかゴミ屋敷の中で窒息死せずに済んだのだ。
一つ息をついて、俺は閑散とした店内をぐるりと見回した。ここの従業員は店主のセリトと、さっきの子供の二人しかいないはずだが、店の中は整然と落ち着いた雰囲気を保っている。これがセリトの店だとは実に奇跡としか思えないが、どうせ掃除はすべてあの子供がやっているのだろう。そもそも「片づける」という概念を持たないセリトに、客を迎え入れる空間を作ることなど不可能だ。その身に合わない、立派な子供を手にしたものだ――そんな皮肉な考えに、俺は苦いものがこみ上げてくるのを感じた。
そう、セリトという男は怠惰の罰を受けてのたれ死んでいるのがお似合いなのに、ぎりぎりのところでなぜか必ず手を差しのべてくれる人間が現れるのだ。
本来なら、エリサを失った時点であいつの命運は尽きるはずだったのに。それなのに、突然現れた子供があいつの命を救ってしまった。だからエリサがいないこの世界で、あいつはまだ何の罰も受けずに生き続けている――。
黙ったまま店内を歩き、奥のドアを一つくぐったところで、俺はどうやらこの建物の店舗から住居部分に足を踏み入れてしまったようだった。薄暗い廊下の行き当たりに、昨日訪れた殺風景な玄関が見えた。
まったく、何と狭い敷地なのだろう。俺の家が普通ではないと知ってはいても、こうして実際に目にすると、溜息を禁じ得ない。店舗の入り口から裏の玄関まで三十歩もないなんて、俺の自室の半分もないではないか。こんな狭苦しいところにエリサが押し込められなくて、かえって良かったのかもしれない。
傘立てとサンダルしかない玄関を三歩で通り抜け、俺はリビングらしい部屋に入った。リビングであるとすぐに断定できないのは、もちろんその狭さのせいだ。あの小さな店舗の半分しかない一室を、リビングと呼ぶにはどうにも抵抗がある。本当に、こんなところに住み続けていて気が狂わないのだろうか?
座り心地の悪そうな安っぽいソファに腰を下ろそうかためらったところで、不意に俺の目にそれが飛び込んできた。
全体的にグレーで統一された無機質な部屋の中で、まるでそこだけ切り取ったかのような、眩しいほどの白。
狭い部屋の片隅を占める、その白い空間は――。
「突然の家庭訪問とは、あまり感心できないね」
不意に、背後から静かな声が上がった。振り向くまでもなく、俺はその声の主が誰であるかわかった。
「セリト……」
案の定、セリトは感情のこもらない目で俺を見下ろしていた。いつだって……出会った時からそうだった。空洞のような、表情に乏しいこの目を見るたび、俺は腹立たしくなるのだ。
初めて出会った時、セリトは十八歳で俺は十二歳だった。あれから年を経ても俺の体は成長することなく、年齢差と同じように身長差も決して埋まることはなかった。だから互いに顔を合わせる時は、必ずセリトが俺のつむじを見下ろし、俺は奴の顎を見上げることになるのだ。その立ち位置は、十五年経った今も逆転することはない。社会的な立場も名声も、その真逆だというのに――それでも俺はセリトを見下ろすことができないのだ。
エリサを奪い取った、この男を。
そのことが、どうしても許し難いのだ。
「訪問なんぞするつもりはなかったが、どうしても用があったからな」
「それならおとなしく店でお茶でも飲んで待っててくれれば良かったのに。こんな狭苦しい家を見たって、何も面白いものはないよ」
まるで俺の心情を読み取ったかのような台詞が、小憎らしい。
だが、俺はあえて無視して、単刀直入に告げることにした。
「――エリサを返してもらおう」
その言葉に、セリトが小さく息を飲むのがわかった。
「……どういう意味だい?」
「そのままの意味だ。エリサの遺骨を返してもらいたい。エリサを弔うのは我々一族の役目だ」
俺がそう告げると、しかしセリトは憎たらしい、薄い笑みを返した。
「弔う、だって? 遺体を原子レベルにまでバラバラにして、灰一つ残さない原子葬を推進する一族が?」
「――エリサは特別だ! 本来、おまえのところになど置いておくべきではなかったんだ! こんなところじゃ、手向ける花すらろくに買えないだろう」
セリトはいつも俺を苛立たせる。なぜ、罪深いこの男のほうが、俺よりも泰然と構えているのだろう。自分の罪から目をそらし、平気でくだらない台詞を吐けるのだろう。
怒りで目眩を起こしそうな俺に、セリトは短く告げる。
「無駄だよ」
「何だと?」
「エリサはもう、どこにもいない。骨の欠片さえも」
いったい、こいつは何を言い出すのだろう。俺は嫌な予感に駆られ、全身の皮膚がざわざわとあわ立つのを感じた。きっと顔色も蒼白になっているだろう。それを嘲笑うように、セリトはさらに続ける。
「ねえハル、君はどうして僕が白葬を始めたのか、わからなかったのかい? それとも、あえて考えようとしなかったのかな?」
俺の顔色が変わってゆくのを眺めながら、セリトは部屋の片隅を指差した。
灰色に染められた狭い世界に、そこだけ切り取ったかのような、眩しい白。
小さな白い花を植えた、無機質な白い箱を。
「持っていくというなら、そうすればいい。ほら、それ――そこにある鉢、同業者の君なら何だかわかるだろう? あれがエリサの墓だ。骨はもうとっくに分解され尽くしているだろうけど」
背後で、息を呑む音が聞こえた気がした。だが、俺にとってはそれどころではなかった。
「ふ、ふざけるな……っ!」
気づいた時、俺はその鉢植えを足蹴にして引っくり返していた。弾力のある箱は割れなかったが、床に跳ね返り、中の土が点々と飛び散った。
これが――こんなものが、エリサの墓だと? どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだ。
エリサは俺の世界のすべてだった。
それを最初に奪ったのはこの男だ。
当然のこと腹では許していなかったが、渋々でもあきらめたのは、エリサがそれを望んだからだ。俺はエリサを悲しませたくはなかったのだ。
だが、その結果がこれ。
この男はエリサを奪い、殺し、そしてあろうことか、こんなちっぽけな箱に押し込めたのだ。
ふざけるな!
ふざけるな!
「――いい加減にしてください!」
強い力が、俺の手首をいきなり後方に引っぱった。前のめりの体勢になっていた俺は、逆方向に引かれ、危うく転びそうになってしまった。
「人の家に押しかけて、何を暴れてるんですか! さっさと帰ってください、迷惑です!」
険しい顔つきでそう叫ぶのは、セリトが保護している子供だった。
名は――確かレイ、だったか。
ユノの滞在先ということで、俺は家の者にこの子供の素性もあらかた調べさせていた。ユノも一人の女である以上、万に一つの間違いがあってはいけないという配慮のもとで。
そして、報告を受けて俺は予想外のことに驚いたのだ。
まだ十八にならないこの子供は、人としても不完全であるという事実に。
「中途半端な存在のくせに、余計な口出しをするな、この中間性(インターリム)が!」
その台詞を投げつけた瞬間、その子供の顔が強ばるのを俺は見た。
そして同時に、俺は左頬に熱さと痛みを感じた。
(つづく)
(初出:2015年09月16日)
(初出:2015年09月16日)
登録日:2015年09月16日 17時11分
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