小説/SF
葬送のフーガ(9)
[連載 | 連載中 | 全17話] 目次へ
ユノが家出をした原因は、名家である所以だろうか。立ち聞きしてしまった父の話に衝撃を受ける。忌まわしい過去の舞台となった場所に訪れたユノに声をかけたのはハルだった。
ユノ(四)
容赦なく斬りつけるような冷たい北風に身を震わせながら、わたしは枯れ葉の舞い散る並木道を一人歩いていた。
吐き出す息も白さを増す。だんだん正午に向かっているはずなのに、太陽のない冬空の下では、むしろ逆に冷え込んできているのかもしれない。
もう一度白い溜息を吐き出して、わたしは服の上から手術痕をそっと撫でた。八年も経って、すでに肉が盛っているけれど、こんなしみ入るような寒さの日には古傷がうずいてくる。そして傷痕に触れるたび、わたしの命が人の犠牲の上に成り立っていることを、嫌でも思い出してしまう。
わたしに一つの臓器を与えるためだけに生かされていたリノ。
わたしの手術をしたせいで、命を失ってしまったエリサさん。
そして――この世に生まれ落ちると同時に失われた、もう一つの命。
彼女たちの骸の上で堂々とあぐらをかいて生きていくことなど、わたしにはできない。それなのに。
――犠牲の果てに得た命さえ、簡単に否定されてしまうなんて。
忌まわしい過去を反芻しながら、わたしが向かったのは、その記憶の舞台だった。
二度と足を踏み入れるまいと思っていた、あの病院。
グループが出資していることもあり、わたしの主治医は相変わらずここの医師だが、あの手術以来、往診のみで一度も通院したことはなかった。エリサさんの訃報に強いショックを受けたわたしは、ここに来ることを頑なに拒否したのだった。
その病院の敷地内に、わたしは今、立っている。
ここは市内でも最も大きな総合病院。表向きには一般患者も受け入れているが、紹介状がなければ決して診療しないという閉鎖的な態度でも有名らしい。
とはいえ、裏で非合法な手術を平気で行うくらいなのだから、あまりオープンにできないのも当然かもしれない。
そのせいか、八年ぶりに訪れても、当時と雰囲気は何も変わっていないような気がする。病院の閉ざされた空気は、何年経っても同じなのだろう。
一応は家出中の身なので、正面口は避け、裏口から中庭に向かった。何しろ一族の出資する病院であるため、息のかかったスタッフもここには多く勤めている。見つかれば、ろくなことにはならないだろう。
そう、本来なら発見される可能性の高い場所をうろつきたくはなかったのだ。それでもここに来たのには、理由がある。
容赦なく吹きつける北風に首をすくめながら、わたしは中庭をまっすぐ突き抜けた。枯れ葉舞う木々を越え、病棟からだいぶ離れたその一角。そこには、ひときわ大きな桜の木があった。
秋も終わりのこの時期は、葉すらも落として寂しい姿になっているが、春爛漫ともなれば見事な花を咲かせていた。
『ねえ、ユノちゃん。今日は一緒にお花見しない?』
あの日、相変わらずぱりっと糊のきいた白衣を翻し、エリサさんは振り向きざまにそう訊ねてきた。
検査入院していたわたしの病室からは、満開の桜の木々が一面に眺め渡せた。VIP扱いなので、もっとも眺めの良い部屋が割り当てられたのだろう。もともと閉じ込められることが嫌いなわたしは、当然エリサさんの誘いを二つ返事で聞き入れた。
先に降りて用意していると言うエリサさんを後から追いかけ、わたしは病人であることも忘れて中庭に駆けていった。
ドアを開けた瞬間、強い風が真正面から吹きつけてきて、わたしは思わず目をつぶった。風が少し収まって、薄く開いた視界に広がっていたのは、薄紅色の春霞。一面の桜吹雪に囲まれ、長い黒髪を風に揺らす後ろ姿に、わたしは息を飲んだ。
そして――目の前に現れた、もう一つの影にも。
春の突風は、一個の帽子をわたしの足元まで飛ばしてきた。つま先に引っかかったその黒い帽子を拾い上げると、持ち主がにっこりと微笑みかけてきた。
『ああ、ありがとう。君がユノちゃんだね? エリサからよく聞いてるよ』
その人がセリトさんだと、わたしはすぐにはわからなかった。エリサさんから、時々恋人の話は聞いていたけれど、思い描いていた人物像とはあまりにも違っていたのだ。
渡した帽子を再びかぶろうとする彼の髪は、春の日差しの中でまばゆいほど輝いていた。
その髪も、黒い手袋の下からのぞく手首の肌も、透き通るほどの完全な白。
アルビノという言葉を知らなかったわたしは、ただ目を丸くして見つめることしかできなかった。
微笑を浮かべたまま、彼はエリサさんの立つ桜の下に再び戻った。
舞い散る薄紅色の中、寄り添う黒と白の影。わたしは名前を呼ばれたことすらも忘れて、彼らの姿を眺めていた。
二人は、まるで完成された絵の中にいるようだった。彼らの見上げる大樹さえも、画布を占める要素の一つのように見えた。
その木の下が、二人にとっていつも語らう思い出の場所だったことを、わたしは後から知った――。
ざく、ざくと落ち葉を踏みしめて、わたしはその木の前にたどり着いた。
遠くからでも一目でわかるほど成長した、一本の古木。白と黒の影がいつもたたずんでいた場所に、今は小さな白い影だけがあった。
名を刻まれた、白い石。
その前で、わたしはつぶやいた。
「エリサさん……」
刻まれているのは、彼女の名。これはエリサさんの墓石なのだ。わたしはなぜここへ来ようとしたのか、自分でもよくわからない。エリサさんに会って聞きたいことは山ほどある。だけど、墓前に向かい合っても、彼女の言葉を聞くことはできないのだ。それなのに、なぜ――?
「そこで何をしている?」
その声に、わたしの心臓は大きく跳ね上がった。慌てて振り返り、そして今度は鼓動が止まるかと思った。
「――ハル!?」
病院のスタッフどころではない。一番避けていたはずの当人が、わたしの真後ろで腕組みをしながら立っていたのだ。
「家出をするなら、もう少しましな場所を選んだらどうだ? 見つけてくれと言わんばかりだろうが」
溜息混じりにそう言うハルは、完全に呆れた表情をしていた。自分でも自覚はしているけれど、そう露骨な態度をとられると、やはり反感が胸に湧き起こってくる。
「別にそんなつもりじゃないわ。ここへはお墓参りに立ち寄っただけよ」
「墓参り? 花の一本も持たずにか?」
わたしは、ハルの言葉に答えなかった。確かに、本来なら供花くらい持ってくるのが筋だろう。しかし、少しでも目立たないように行動しようとしていたわたしは、そこまで考える余裕もなかった。
ただ、エリサさんに会いたい一心で。
黙ったままうつむいていると、ハルは不機嫌そうに溜息を一つ吐き出し、こう告げた。
「まあいい。こんなところで立ち話をしても人目に付くだけだ。とりあえず中に入れ」
ハルが顎で指したのは、真後ろにある旧棟だった。今さら拒む理由もないので、わたしはそれに従った。
八年の時を経て、旧棟はますます寂れたように見えた。ほとんど放棄されたも同じなのだろう。床には埃がたまって、掃除されている様子もない。
結局、ここはリノのためにあった場所なのだ。今、改めてそう思う。人目に付きにくい、敷地の外れにぽつんと立つ、古い病棟。資金がないわけでもないのに残されていたのは、リノを十年間、密かに生かし続けるためだったのだ。
ギギ、と軋む音を立てて、その部屋の扉は開いた。
黴と埃の臭いが真っ先に鼻を刺激する。私は呼吸を抑え目にしながら室内に入ると、ぐるりと中を見回した。
そう、ここはかつて、人知れず犯罪が行われていた場所。
一人の少女を完全な女にするために、もう一人の少女の命を踏みにじり続けてきた、あの忌まわしい病室なのだ。
ぐるりと首をめぐらせて、私は部屋の中央で視線を止めた。八年前、リノの水槽が置かれていたはずの場所には、古臭い簡易ベッドがぽつんと置かれていた。
小さく息をついた私が何を思い出しているのか、ハルにもわかっているだろう。この部屋で私にリノのことを教えたのは、彼だったのだから。
だけどハルはその件については一言も口にせず、黙ったままベッドに腰を下ろした。何しろ廃屋同然の室内に、椅子やソファのようなものはない。仕方なく私もその隣に腰かけた。
座った際に舞い上がる埃がやや落ち着いたところで、ハルはようやく口を開いた。
「それで、おまえはなぜ逃げ出した? そこまでして俺に恥をかかせたかったのか」
「そ、そんなつもりじゃ……」
開口一番、苛立った声で問い詰める彼に、わたしは困惑した。別にそんなつもりはなかったのだ。わたしが家を飛び出したのは、背負うには重すぎる事実に押しつぶされそうになったから。そして、それはハルには直接関係のないことだった。
何から説明すべきかと戸惑っているうちに、どうやらハルの誤解はいっそう深まったようだった。
「おまえの目論見通り、俺は今、微妙な立場に立たされている。発案した原子葬も軌道に乗ったし、もう俺は用済みだ。おまえとの結婚が残された利用価値だったが、今となっては無駄な話だ」
「別にそういうわけじゃないわ。わたしはただ……」
「なぜあいつなんだ? どうしてあいつを頼るんだ!」
「あいつって――セリトさん……?」
いったい、ハルは何を言い出すのだろう。ハルがあいつと言う時、決まってそれはセリトさんを指す。だけど、今ここでセリトさんの名前を挙げる必要はないはずだ。
それなのに、ハルはその名を聞いただけでさらに激昂した。
「わからないのか。あいつはエリサを見殺しにした男だぞ! あいつの本性を知らないのか!?」
「――エリサさんを殺したのはわたしよ!」
言いつのるハルを遮るように、わたしは声を荒立てて叫んだ。
「わからないのはあなたの方よ。セリトさんのせいなんかじゃない……わたしがエリサさんを死なせたのよ……!」
今さらながら、ようやくハルの本心が見えてきた。彼が腹を立てたのは、わたしが家出したことに対してではない。わたしが家出先に、セリトさんを選んだことだったのだ。
――ハルは、いまだにセリトさんを憎んでいる。彼が唯一愛したエリサさんを奪った敵として。
「……おまえもか」
ハルは、低くうなるように声を押し出した。今まで聞いたこともない声音に、思わずわたしは身構える。
「おまえも、あいつを庇うのか? エリサと同じように、あいつの罪を代わりにかぶるのか! あんな屑のような男が、そこまで愛しいのか!?」
いつも冷静なはずのハルが、今や獣の咆哮のようにわめきながら、ベッドにのしかかってわたしの胸倉を締め上げてきた。その両眼は怒りに赤く燃えている。
「どう…して……」
息苦しさに朦朧としながら、小さな問いがこぼれ落ちた。
どうして、そこまでセリトさんを憎むの?
なぜ、そこまでエリサさんにこだわるの?
――憎さも愛しさも、わたしに対して向けることは一度としてなかったのに。
つぶやきのようなわたしの声は、もはやハルの耳には届いていなかった。
胸倉をつかんでいた彼は、そのままわたしをベッドに押しつけた。
子供のまま成長しない体のどこに、これほどの力が隠されていたのだろう。古いベッドの硬い感触を背に受けながら、私はただ怒りに燃えるハルの目を見つめ返すことしかできなかった。
力いっぱいつかみかかるハルの手が、肩に、腕に、手首に、痛いほど深く食い込んでくる。気づいた時には、着ていた上衣をボタンごとむしり取られてしまった。
たとえ見た目は子供でも、本来は充分成長した大人の男だ。十二歳の肉体に二十七歳の精神を押し込められた彼が何をしようとしているのか、わたしにもわからないはずがない。
それでも、わたしはあえて抗おうとはしなかった。ハルの気が済むならそれでいいと――そんな投げやりな気分になっていたのかもしれない。
次第に露わになる肌に、骨ばった指の感触を覚えながら、わたしは意識を過去に泳がせていた。
「――子供が産めないというのは本当か?」
崩壊の始まりを告げる第一声は、我が家の中央で発せられた。
「手術は成功だったんだろう!? それなのに、なぜ無理なんだ!」
続く台詞で、それがわたしのことを指しているのだとわかった。
声の主はわたしの父。無駄に広いリビングを舞台に、悲劇の父親役を張り切って演じていた。ただ誤算だったのは、ひっそり舞台袖に隠れた観客がいたことだったろう。それはわたしに聞かせるはずのない台詞だったのだから。
激しい怒りをぶつけられた相手は、わたしが長年世話になっていた病院の院長だった。出資の比率から言っても力関係は我が家の方が上なので、院長は青ざめた顔で何度も何度も頭を下げた。
真冬にも関わらず額に大量の汗をにじませながら、弁解するように語る院長の説明に、父の顔はいっそう険しくなっていった。
「馬鹿な……だったら何のためにあんなことをしたんだ?」
要するに、いくら子宮を移植したところで妊娠は不可能ということだった。その通告に父は大きな衝撃を受けたのだが、わたしはそうかとただ納得しただけだった。
十歳当時は何もわかっていなかったけれど、さすがに大きくなれば自分がどんな手術を受けたかくらいは知っていた。両親がわたしのために子宮移植をさせたのだということを。とはいえドナーの性質上、表立ってはできないので、懇意にしているグループ傘下の病院に極秘で依頼した。
そうして手術は成功したと言われてきたけれど――わたしはある時期からそれを疑い始めていた。なぜなら、もう十八になろうというのに、わたしはまだ初潮を迎えていなかったからだ。
だから漠然と抱えていた予感が現実になっただけで、わざわざ衝撃を受けるほどでもなかったのだ。
――そう、次の台詞を耳にするまでは。
「まったく、無駄なことをした……こんなことならリノを生かしておくべきだった。移植なんぞせずに、そのまま人工授精でもして水槽の中で産ませれば良かったんだ……!」
一瞬、耳を疑った。
――リノ?
術後、忽然と水槽ごと消えてしまったリノ。あれから何度も探してみたけれど、どこにも見当たらなかった。それで両親に尋ねてみたのに、単なる夢で片づけられてしまった。
そのはずなのに、父ははっきりとリノの名を口にした。
それだけではなかった。凍りついたまま、リビングの入り口で立ち尽くしているわたしのことなど知らない父は、隠されていた事実を次々と話し始めた。
わたしに移植された子宮の提供者は、DNAの同じ双子の妹、リノであったこと。
本来は生まれてすぐに死ぬはずだったリノは、そのためだけに十年間生かされていたこと。
リノは出生届すら出されておらず、さらに証拠隠滅のため、原子葬でこの世から完全に消されたこと――。
わたしは体の震えを止めることができなかった。次々と聞きたくもない言葉が奔流のように、わたしの耳に流れ込んでくる。いっそ耳を塞いでその場から駆け出してしまえば良かったのかもしれない。そうすれば、最後の決定的な破滅を告げる言葉を聞かずに済んだのに。
「そうは申されますが……こちらもこの件では多いに被害を受けているのですよ」
一方的な非難を受け続けていた院長は、控えめではあったものの、抗議を申し立てた。
「何だと?」
思わぬ反応に、父は剣呑な声で聞き返したけれど、院長は構わず続ける。
「あの手術がきっかけで、エリサは心を病み――そして自ら命を絶ったのです。将来はうちの病院を背負うはずだったのに……惜しいことをしました」
「それは……」
さすがの父も、反駁の言葉を失ったようだった。一方、わたしは声どころか息をすることさえ忘れていた。
――エリサさんの死は、わたしのせいだったの……?
エリサさんの訃報は、彼女がわたしの前から姿を消して一年後に届けられた。
お産の直後だったという。しかも死産で、それを悔いて自殺したのだと――そう聞かされていた。それなのに。
「わたしの……せいで、エリサさんは死んだの……?」
思わずわたしは、父たちの前に姿を現していた。もうこれ以上、黙って聞き続けることはできなかったのだ。
「ユノ!? どうしてここに……」
父の狼狽するところを、わたしはこの時、初めて見た。普段、厳格な顔しか見せない父が、うろたえて言い淀むなど、一度としてなかったのに。
「わたしのせいで死んだの? わたしが生きてるせいで……エリサさんも、リノも死んだの? わたしのせいで……」
「ユノ……」
「――それなら、わたしは人殺しだわ。リノも、エリサさんも、その子供も、みんなわたしが殺したのよ……!」
言い捨てて、わたしは踵を返した。後ろから力なく父の呼ぶ声が聞こえたけれど、振り向く気にもならなかった。
そしてその日の内に、家出を決行したのだった。
……わたしの肌の上を這っていた指が、不意に動きを止めた。次に感じたのは、小刻みな震えだった。
「……ハル?」
上に乗っているハルを見上げると、その顔はひどく青ざめていた。ついさっきまで、怒りに任せてわたしを押し倒していたはずなのに。
だけど、その震える指先が触れるものを見た時、わたしは思わず息をついた。
ハルの手は、下腹の手術痕の上で止まっていたのだ。――エリサさんが亡くなるきっかけとなった、罪の印。その古い傷痕の上で、彼はぎゅっと拳を握りしめた。
容赦なく斬りつけるような冷たい北風に身を震わせながら、わたしは枯れ葉の舞い散る並木道を一人歩いていた。
吐き出す息も白さを増す。だんだん正午に向かっているはずなのに、太陽のない冬空の下では、むしろ逆に冷え込んできているのかもしれない。
もう一度白い溜息を吐き出して、わたしは服の上から手術痕をそっと撫でた。八年も経って、すでに肉が盛っているけれど、こんなしみ入るような寒さの日には古傷がうずいてくる。そして傷痕に触れるたび、わたしの命が人の犠牲の上に成り立っていることを、嫌でも思い出してしまう。
わたしに一つの臓器を与えるためだけに生かされていたリノ。
わたしの手術をしたせいで、命を失ってしまったエリサさん。
そして――この世に生まれ落ちると同時に失われた、もう一つの命。
彼女たちの骸の上で堂々とあぐらをかいて生きていくことなど、わたしにはできない。それなのに。
――犠牲の果てに得た命さえ、簡単に否定されてしまうなんて。
忌まわしい過去を反芻しながら、わたしが向かったのは、その記憶の舞台だった。
二度と足を踏み入れるまいと思っていた、あの病院。
グループが出資していることもあり、わたしの主治医は相変わらずここの医師だが、あの手術以来、往診のみで一度も通院したことはなかった。エリサさんの訃報に強いショックを受けたわたしは、ここに来ることを頑なに拒否したのだった。
その病院の敷地内に、わたしは今、立っている。
ここは市内でも最も大きな総合病院。表向きには一般患者も受け入れているが、紹介状がなければ決して診療しないという閉鎖的な態度でも有名らしい。
とはいえ、裏で非合法な手術を平気で行うくらいなのだから、あまりオープンにできないのも当然かもしれない。
そのせいか、八年ぶりに訪れても、当時と雰囲気は何も変わっていないような気がする。病院の閉ざされた空気は、何年経っても同じなのだろう。
一応は家出中の身なので、正面口は避け、裏口から中庭に向かった。何しろ一族の出資する病院であるため、息のかかったスタッフもここには多く勤めている。見つかれば、ろくなことにはならないだろう。
そう、本来なら発見される可能性の高い場所をうろつきたくはなかったのだ。それでもここに来たのには、理由がある。
容赦なく吹きつける北風に首をすくめながら、わたしは中庭をまっすぐ突き抜けた。枯れ葉舞う木々を越え、病棟からだいぶ離れたその一角。そこには、ひときわ大きな桜の木があった。
秋も終わりのこの時期は、葉すらも落として寂しい姿になっているが、春爛漫ともなれば見事な花を咲かせていた。
『ねえ、ユノちゃん。今日は一緒にお花見しない?』
あの日、相変わらずぱりっと糊のきいた白衣を翻し、エリサさんは振り向きざまにそう訊ねてきた。
検査入院していたわたしの病室からは、満開の桜の木々が一面に眺め渡せた。VIP扱いなので、もっとも眺めの良い部屋が割り当てられたのだろう。もともと閉じ込められることが嫌いなわたしは、当然エリサさんの誘いを二つ返事で聞き入れた。
先に降りて用意していると言うエリサさんを後から追いかけ、わたしは病人であることも忘れて中庭に駆けていった。
ドアを開けた瞬間、強い風が真正面から吹きつけてきて、わたしは思わず目をつぶった。風が少し収まって、薄く開いた視界に広がっていたのは、薄紅色の春霞。一面の桜吹雪に囲まれ、長い黒髪を風に揺らす後ろ姿に、わたしは息を飲んだ。
そして――目の前に現れた、もう一つの影にも。
春の突風は、一個の帽子をわたしの足元まで飛ばしてきた。つま先に引っかかったその黒い帽子を拾い上げると、持ち主がにっこりと微笑みかけてきた。
『ああ、ありがとう。君がユノちゃんだね? エリサからよく聞いてるよ』
その人がセリトさんだと、わたしはすぐにはわからなかった。エリサさんから、時々恋人の話は聞いていたけれど、思い描いていた人物像とはあまりにも違っていたのだ。
渡した帽子を再びかぶろうとする彼の髪は、春の日差しの中でまばゆいほど輝いていた。
その髪も、黒い手袋の下からのぞく手首の肌も、透き通るほどの完全な白。
アルビノという言葉を知らなかったわたしは、ただ目を丸くして見つめることしかできなかった。
微笑を浮かべたまま、彼はエリサさんの立つ桜の下に再び戻った。
舞い散る薄紅色の中、寄り添う黒と白の影。わたしは名前を呼ばれたことすらも忘れて、彼らの姿を眺めていた。
二人は、まるで完成された絵の中にいるようだった。彼らの見上げる大樹さえも、画布を占める要素の一つのように見えた。
その木の下が、二人にとっていつも語らう思い出の場所だったことを、わたしは後から知った――。
ざく、ざくと落ち葉を踏みしめて、わたしはその木の前にたどり着いた。
遠くからでも一目でわかるほど成長した、一本の古木。白と黒の影がいつもたたずんでいた場所に、今は小さな白い影だけがあった。
名を刻まれた、白い石。
その前で、わたしはつぶやいた。
「エリサさん……」
刻まれているのは、彼女の名。これはエリサさんの墓石なのだ。わたしはなぜここへ来ようとしたのか、自分でもよくわからない。エリサさんに会って聞きたいことは山ほどある。だけど、墓前に向かい合っても、彼女の言葉を聞くことはできないのだ。それなのに、なぜ――?
「そこで何をしている?」
その声に、わたしの心臓は大きく跳ね上がった。慌てて振り返り、そして今度は鼓動が止まるかと思った。
「――ハル!?」
病院のスタッフどころではない。一番避けていたはずの当人が、わたしの真後ろで腕組みをしながら立っていたのだ。
「家出をするなら、もう少しましな場所を選んだらどうだ? 見つけてくれと言わんばかりだろうが」
溜息混じりにそう言うハルは、完全に呆れた表情をしていた。自分でも自覚はしているけれど、そう露骨な態度をとられると、やはり反感が胸に湧き起こってくる。
「別にそんなつもりじゃないわ。ここへはお墓参りに立ち寄っただけよ」
「墓参り? 花の一本も持たずにか?」
わたしは、ハルの言葉に答えなかった。確かに、本来なら供花くらい持ってくるのが筋だろう。しかし、少しでも目立たないように行動しようとしていたわたしは、そこまで考える余裕もなかった。
ただ、エリサさんに会いたい一心で。
黙ったままうつむいていると、ハルは不機嫌そうに溜息を一つ吐き出し、こう告げた。
「まあいい。こんなところで立ち話をしても人目に付くだけだ。とりあえず中に入れ」
ハルが顎で指したのは、真後ろにある旧棟だった。今さら拒む理由もないので、わたしはそれに従った。
八年の時を経て、旧棟はますます寂れたように見えた。ほとんど放棄されたも同じなのだろう。床には埃がたまって、掃除されている様子もない。
結局、ここはリノのためにあった場所なのだ。今、改めてそう思う。人目に付きにくい、敷地の外れにぽつんと立つ、古い病棟。資金がないわけでもないのに残されていたのは、リノを十年間、密かに生かし続けるためだったのだ。
ギギ、と軋む音を立てて、その部屋の扉は開いた。
黴と埃の臭いが真っ先に鼻を刺激する。私は呼吸を抑え目にしながら室内に入ると、ぐるりと中を見回した。
そう、ここはかつて、人知れず犯罪が行われていた場所。
一人の少女を完全な女にするために、もう一人の少女の命を踏みにじり続けてきた、あの忌まわしい病室なのだ。
ぐるりと首をめぐらせて、私は部屋の中央で視線を止めた。八年前、リノの水槽が置かれていたはずの場所には、古臭い簡易ベッドがぽつんと置かれていた。
小さく息をついた私が何を思い出しているのか、ハルにもわかっているだろう。この部屋で私にリノのことを教えたのは、彼だったのだから。
だけどハルはその件については一言も口にせず、黙ったままベッドに腰を下ろした。何しろ廃屋同然の室内に、椅子やソファのようなものはない。仕方なく私もその隣に腰かけた。
座った際に舞い上がる埃がやや落ち着いたところで、ハルはようやく口を開いた。
「それで、おまえはなぜ逃げ出した? そこまでして俺に恥をかかせたかったのか」
「そ、そんなつもりじゃ……」
開口一番、苛立った声で問い詰める彼に、わたしは困惑した。別にそんなつもりはなかったのだ。わたしが家を飛び出したのは、背負うには重すぎる事実に押しつぶされそうになったから。そして、それはハルには直接関係のないことだった。
何から説明すべきかと戸惑っているうちに、どうやらハルの誤解はいっそう深まったようだった。
「おまえの目論見通り、俺は今、微妙な立場に立たされている。発案した原子葬も軌道に乗ったし、もう俺は用済みだ。おまえとの結婚が残された利用価値だったが、今となっては無駄な話だ」
「別にそういうわけじゃないわ。わたしはただ……」
「なぜあいつなんだ? どうしてあいつを頼るんだ!」
「あいつって――セリトさん……?」
いったい、ハルは何を言い出すのだろう。ハルがあいつと言う時、決まってそれはセリトさんを指す。だけど、今ここでセリトさんの名前を挙げる必要はないはずだ。
それなのに、ハルはその名を聞いただけでさらに激昂した。
「わからないのか。あいつはエリサを見殺しにした男だぞ! あいつの本性を知らないのか!?」
「――エリサさんを殺したのはわたしよ!」
言いつのるハルを遮るように、わたしは声を荒立てて叫んだ。
「わからないのはあなたの方よ。セリトさんのせいなんかじゃない……わたしがエリサさんを死なせたのよ……!」
今さらながら、ようやくハルの本心が見えてきた。彼が腹を立てたのは、わたしが家出したことに対してではない。わたしが家出先に、セリトさんを選んだことだったのだ。
――ハルは、いまだにセリトさんを憎んでいる。彼が唯一愛したエリサさんを奪った敵として。
「……おまえもか」
ハルは、低くうなるように声を押し出した。今まで聞いたこともない声音に、思わずわたしは身構える。
「おまえも、あいつを庇うのか? エリサと同じように、あいつの罪を代わりにかぶるのか! あんな屑のような男が、そこまで愛しいのか!?」
いつも冷静なはずのハルが、今や獣の咆哮のようにわめきながら、ベッドにのしかかってわたしの胸倉を締め上げてきた。その両眼は怒りに赤く燃えている。
「どう…して……」
息苦しさに朦朧としながら、小さな問いがこぼれ落ちた。
どうして、そこまでセリトさんを憎むの?
なぜ、そこまでエリサさんにこだわるの?
――憎さも愛しさも、わたしに対して向けることは一度としてなかったのに。
つぶやきのようなわたしの声は、もはやハルの耳には届いていなかった。
胸倉をつかんでいた彼は、そのままわたしをベッドに押しつけた。
子供のまま成長しない体のどこに、これほどの力が隠されていたのだろう。古いベッドの硬い感触を背に受けながら、私はただ怒りに燃えるハルの目を見つめ返すことしかできなかった。
力いっぱいつかみかかるハルの手が、肩に、腕に、手首に、痛いほど深く食い込んでくる。気づいた時には、着ていた上衣をボタンごとむしり取られてしまった。
たとえ見た目は子供でも、本来は充分成長した大人の男だ。十二歳の肉体に二十七歳の精神を押し込められた彼が何をしようとしているのか、わたしにもわからないはずがない。
それでも、わたしはあえて抗おうとはしなかった。ハルの気が済むならそれでいいと――そんな投げやりな気分になっていたのかもしれない。
次第に露わになる肌に、骨ばった指の感触を覚えながら、わたしは意識を過去に泳がせていた。
「――子供が産めないというのは本当か?」
崩壊の始まりを告げる第一声は、我が家の中央で発せられた。
「手術は成功だったんだろう!? それなのに、なぜ無理なんだ!」
続く台詞で、それがわたしのことを指しているのだとわかった。
声の主はわたしの父。無駄に広いリビングを舞台に、悲劇の父親役を張り切って演じていた。ただ誤算だったのは、ひっそり舞台袖に隠れた観客がいたことだったろう。それはわたしに聞かせるはずのない台詞だったのだから。
激しい怒りをぶつけられた相手は、わたしが長年世話になっていた病院の院長だった。出資の比率から言っても力関係は我が家の方が上なので、院長は青ざめた顔で何度も何度も頭を下げた。
真冬にも関わらず額に大量の汗をにじませながら、弁解するように語る院長の説明に、父の顔はいっそう険しくなっていった。
「馬鹿な……だったら何のためにあんなことをしたんだ?」
要するに、いくら子宮を移植したところで妊娠は不可能ということだった。その通告に父は大きな衝撃を受けたのだが、わたしはそうかとただ納得しただけだった。
十歳当時は何もわかっていなかったけれど、さすがに大きくなれば自分がどんな手術を受けたかくらいは知っていた。両親がわたしのために子宮移植をさせたのだということを。とはいえドナーの性質上、表立ってはできないので、懇意にしているグループ傘下の病院に極秘で依頼した。
そうして手術は成功したと言われてきたけれど――わたしはある時期からそれを疑い始めていた。なぜなら、もう十八になろうというのに、わたしはまだ初潮を迎えていなかったからだ。
だから漠然と抱えていた予感が現実になっただけで、わざわざ衝撃を受けるほどでもなかったのだ。
――そう、次の台詞を耳にするまでは。
「まったく、無駄なことをした……こんなことならリノを生かしておくべきだった。移植なんぞせずに、そのまま人工授精でもして水槽の中で産ませれば良かったんだ……!」
一瞬、耳を疑った。
――リノ?
術後、忽然と水槽ごと消えてしまったリノ。あれから何度も探してみたけれど、どこにも見当たらなかった。それで両親に尋ねてみたのに、単なる夢で片づけられてしまった。
そのはずなのに、父ははっきりとリノの名を口にした。
それだけではなかった。凍りついたまま、リビングの入り口で立ち尽くしているわたしのことなど知らない父は、隠されていた事実を次々と話し始めた。
わたしに移植された子宮の提供者は、DNAの同じ双子の妹、リノであったこと。
本来は生まれてすぐに死ぬはずだったリノは、そのためだけに十年間生かされていたこと。
リノは出生届すら出されておらず、さらに証拠隠滅のため、原子葬でこの世から完全に消されたこと――。
わたしは体の震えを止めることができなかった。次々と聞きたくもない言葉が奔流のように、わたしの耳に流れ込んでくる。いっそ耳を塞いでその場から駆け出してしまえば良かったのかもしれない。そうすれば、最後の決定的な破滅を告げる言葉を聞かずに済んだのに。
「そうは申されますが……こちらもこの件では多いに被害を受けているのですよ」
一方的な非難を受け続けていた院長は、控えめではあったものの、抗議を申し立てた。
「何だと?」
思わぬ反応に、父は剣呑な声で聞き返したけれど、院長は構わず続ける。
「あの手術がきっかけで、エリサは心を病み――そして自ら命を絶ったのです。将来はうちの病院を背負うはずだったのに……惜しいことをしました」
「それは……」
さすがの父も、反駁の言葉を失ったようだった。一方、わたしは声どころか息をすることさえ忘れていた。
――エリサさんの死は、わたしのせいだったの……?
エリサさんの訃報は、彼女がわたしの前から姿を消して一年後に届けられた。
お産の直後だったという。しかも死産で、それを悔いて自殺したのだと――そう聞かされていた。それなのに。
「わたしの……せいで、エリサさんは死んだの……?」
思わずわたしは、父たちの前に姿を現していた。もうこれ以上、黙って聞き続けることはできなかったのだ。
「ユノ!? どうしてここに……」
父の狼狽するところを、わたしはこの時、初めて見た。普段、厳格な顔しか見せない父が、うろたえて言い淀むなど、一度としてなかったのに。
「わたしのせいで死んだの? わたしが生きてるせいで……エリサさんも、リノも死んだの? わたしのせいで……」
「ユノ……」
「――それなら、わたしは人殺しだわ。リノも、エリサさんも、その子供も、みんなわたしが殺したのよ……!」
言い捨てて、わたしは踵を返した。後ろから力なく父の呼ぶ声が聞こえたけれど、振り向く気にもならなかった。
そしてその日の内に、家出を決行したのだった。
……わたしの肌の上を這っていた指が、不意に動きを止めた。次に感じたのは、小刻みな震えだった。
「……ハル?」
上に乗っているハルを見上げると、その顔はひどく青ざめていた。ついさっきまで、怒りに任せてわたしを押し倒していたはずなのに。
だけど、その震える指先が触れるものを見た時、わたしは思わず息をついた。
ハルの手は、下腹の手術痕の上で止まっていたのだ。――エリサさんが亡くなるきっかけとなった、罪の印。その古い傷痕の上で、彼はぎゅっと拳を握りしめた。
(つづく)
(初出:2015年09月03日)
(初出:2015年09月03日)
登録日:2015年09月03日 18時52分
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