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城本朔夜
著者:城本朔夜(しろもとさくや)
自称「心のカメラマン」。被写体は、見えなくて、水のようにいつも動いているもの。究極に目指すのは、世にも美しい芸術作品。でも好きなのは、なんの変哲もない「スナップ写真」。撮ったあと、ちょっと変わっているのが撮れていたりすると、嬉しくなって、誰かとシェアしてみたくなります。
小説/SF

生態刑(5)

[連載 | 完結済 | 全5話] 目次へ
一命をとりとめた聡だったが、おじさん――庄田博士から衝撃的な話を聞かされる。そして、じんのすけを通し、あるものを託された。雲ひとつない青空のように透明な心で決意する聡。生態刑、最終章。
 見ると、ぼくの横にじんのすけが横たわっている。ぐるぐると包帯が巻いてあるお腹が、大きく上下に動いている。一命はとりとめたようだ。ほっと息をつく。そう言うぼくも、じんのすけと同じ状態でベッドに横たわっている。
 あれから、おじさんはどうなったんだろう? 柴田は? そしてさゆりさんたちは? 母さん……どうしてぼくをあんな眼で見ていたんだろう……。眠るじんのすけを見ながらぼくは、考えていた。
「やあ、気がついたね、まったく、無茶なことばかりしやがって」
 入ってきたのは、おじさんだった。
「ここは?」
「医者の免許がないんでね。ともかくは、獣医の小林さんのところへおまえを運んだ。オレよりは小林さんの方がいくらかましだ」
 じんのすけがここにいる意味が、わかった。
「応急処置しかしていないから、後で病院へ行くことになるけど、大丈夫。幸い傷は浅いよ」
「みんなは?」
「何とかことは落ち着いた。お前の仲間は一時、ある場所へ収容した」
 ぼくは思わず身体を起き上がらせた。激痛が走り、途中で断念する。
「殺されるの?」ぼくも含めて。
「いや。これはオレにも責任のあることだ。正体を不明なままに、思わせぶりな行動をとってしまっていたからだ。このまま彼らを処分するのは、目覚めが悪い。特に、広瀬さゆりについては、今までの素行が良かっただけに考える余地があるだろう。心配するな。悪いようにはならないよ」
 ぼくはほっとして、起こし気味の身体を、ベッドに沈めた。
「じんのすけの容態はどうなの?」
 質問尽くめのぼくに、おじさんは苦笑気味に答える。
「大丈夫だ。失血してたんで、かなり弱っていたようだが、たっぷりと輸血したそうだから」
「じんのすけは何でケガをしたんだろう?」
 マッドサイエンティストが存在しない今、ぼくの最大の疑問だった。
「どうやら、クマか何かに襲われたらしい。きっと、腹がへってたんで、森の中に狩をしに入ったんだろう。何かの間違いで、クマの縄張りに入ってしまったんだろうよ」
「そうだったんだ」
 いい意味でも悪い意味でも、自然というのは、きびしい面を持つ場所だということか。それにしても今回は、人騒がせなことだった。じんのすけのやつ。
「ぼくの母さんは…」
「そのことだが、オレにも信じられないことで、戸惑っているんだ」
「どういうこと?」
 おじさんは言いにくいように、口をひどくこわばらせている。
「……堀田聡は、すでに死んでいるんだ」
 衝撃が走った。思わず自分の耳を疑う。
「聡君の家族――つまりお前が母さんと呼んでいる人たち――は、今から一ヶ月半程前に、三人バラバラになって、ここへ収容された。三人は、それぞれの収容所で、自分の罪の理由探しをしていたんだ。聡君のお父さんもお母さんも、ほどなくして釈放された。けれど、親心として自分の息子を残して家に帰るわけにはいかなかった。だからここでボランティアを続けながら、息子が釈放されるのを今か今かと待っていたんだ。だが、ここに入れられて、二週間ほど経っても、聡君はここにきた理由を見つけることはできなかった。オレが思うに、あと一息のところだったと思う。おまえたちが呼ぶ『いけにえ』の選抜にほどなくしてかけられ、聡君は、その一日目にして不幸にも選ばれてしまった」
 だれの話をぼくは聞いているんだろう? ぼくには何が何だかわからない。
「少年がここで命を落とすのはそれが初めてだった。やっぱり年端もいかない少年が命を落とすことは、オレにもショックだった。自然の法則にできるだけ従って、囚人すべてに平等を保つため、表立ったことはできないが、それからのオレは、折を見て少年たちにヒントをやるようになったんだ」
 それが、おじさんの親切さの真相だったんだ。
「おまえの顔を見たときは、びっくりした。だけどすぐに、先に死んだ聡君には双子がいたんだと思いこんだ。なのに、双子ではないというじゃないか。オレは理解に苦しんだよ」 
 ぼくだって、理解に苦しむ。
 そこに、母さんが現れた。部屋の外でそっと、話を聞いていたらしい。たまらずに出てきたという感じだ。
「昨日、うちの飼い犬のじんのすけが私のところに来たんです」
 母さんがぼくに敬語を使っている。ぼくにはそれが悲しかった。
「そしたら、聡が私の居所を捜しているって言うんです。腰が抜けるほどびっくりしました。でも、確かに聡は土に返っていった。だから、じんのすけには人違いだってはっきり言ったんです。じんのすけも、混乱したんでしょうね。悲しそうな複雑な顔をして出ていたから。さっき、あなたを見て正直驚いたの。きっと奇跡が起きたんだって。聡が帰ってきたって。でも、わからないの。あなたは何者? せっかく気持ちの整理ができたところだったのよ。シマウマの母親が子供をライオンに食べられたのにも似た気持ちになってやっと、聡を無駄死にさせたんじゃないって思えるようになったところだったのに。何で今になって……」
 母さんの声は震え、しまいには泣き声になった。言い終わると、頭を抱え激しく首をふりはじめた。ぼくを見たことで錯乱してしまったんだ。おじさんが、母さんを支えた。奥から獣医さんの奥さんらしい人が現れて、母さんを連れて行った。
「自称優秀な科学者たるオレにも、どうにも説明がつかん。けど、お前が何者だろうと、それはどっちでもいいことなんじゃないのか? 今はお前の母さんも取り乱しているけれど、時間がたてばきっとお前を受け入れてくれるだろうと思う。確かにお前は死んでしまったもう一人の身代わりではあるけれど、お前にとっては、あの人はお母さんに違いない。ここを出たら、やり直すつもりで少しずつ、家族の中に居場所を探してもいいんじゃないか?」
 何が何だか、
「……わからない」
「当然だ。とにかく今はよく休め。それからゆっくり考えるんだ。そのうち答えは見えてくるだろうよ」
 おじさんは出て行った。だけど、そんな悠長なものなのだろうか。こんなばかげたこと、一刻も解決して楽になりたかった。
 ぼくは今、自分に起きていることを必死になって考えた。
 母さんにとっての本当の「ぼく」は死んでしまった? それじゃあ、ぼくは何者なんだろう? ぼくが身代わりだって? クローンじゃあるまいし、そんなおまけみたいな人生はいやだ。たとえ、ぼくが本当の家族のつもりで母さんたちと暮らしたとしても、ぼくはいつまでたっても、オリジナルにはなり得ないクローンであり続けるような気がした。
 考えなくっちゃ。ぼくがいったい何者なのか、答えを出さなければ。
 けれど、ぼくは疲れていた。体が泥のように重たい。ギリギリのところまで考えながら、ぼくはそのまま吸いこまれるようにして眠ってしまった。


 夢を見た。夢の中でぼくは、校庭を走っている。校庭にいる生徒は、まばらだ。ぼくはあせっていた。早く家に帰らなくてはならない。なぜ? ぼくは自分に問いかける。何でぼくは走らなくちゃいけないんだ? するとそこではじめて、答えがぼくの中にやってきた。
 昨日父さんがいなくなった。だから早く家に帰って、母さんと一緒に父さんを捜さなくちゃいけないんだ。そうか、とぼくは思う。
 そして、どうでもいいようなことが気になった。授業が終わるや否や誰にもあいさつをしないで走ってきたから、もしかしたら康平がぼくのことをいつまでも待ってるかもしれないな。まずかったかな? 
 それにしても暑い日だ。まだ四月だっていうのに、こんな暑さになるなんて。ぼくは青いストライプの長そでのシャツのそでをまくりあげ、走り続けていた。
 夢の中でぼくは思った。この夢をぼくはよく知っている。何度となく夢で見た、最後には殺されそうになる、いつもの悪夢だ。そして気づいた。 
 これはぼくの頭が作り上げた夢なんかじゃない。死んでしまったもう一人のぼくの記憶だということに。
 彼の記憶の残像は続く。彼は走って家に帰ってきた。体中から汗がふきだし、息があがっている。玄関で靴を脱ぐとき初めて、上履きのまま帰ってきてしまったことに気がついた。よっぽどあわてていたんだ。彼は家の中を見回した。けれど、待っているはずの母さんの姿はなかった。テーブルの上に、札束がおいてある。そして母さんが急いで書いたらしい、書置きが一枚。
「環境犯が入れられる収容所に連れて行かれることになりました。父さんもどうやらそこへ連れて行かれたみたいです。私達がいない間、不便をかけるけれど、ここに置いたお金で、何とかなると思います。元気でね」
 彼は、書置きを握りしめ、グリーンマネーのカードと、少しの現金を自分の財布に入れると、外に飛び出した。父さんと母さんの行方を追うつもりでいる。マンションの前に止まっていたワゴン車から、突然、牛の顔をした二人が降りてきた。
「堀田聡君だね?」名前を確認すると、二人は彼の腕を取り、車の中へ連れて行こうとする。もがく彼。けれど、ハンカチで鼻と口を押さえられ、刺激臭が襲ったかと思うのを最後に、彼は意識を失った。
 その後も彼の悲しい運命はしぶとく彼につきまとい、ぼくは今初めて、彼の最期を夢の中で見届けていた。


 目の前に、白い天井が見えた。ぼくの目にはたくさんの涙があふれている。涙の粒が頬を伝い、枕をぬらしていた。
 ぼくは彼を想い、もう一度目を閉じた。そしてゆっくりと、自分の中のあの日の記憶のフィルムをまき戻し始めた。そう、ぼくにとって、こんなおかしなことが始まった、季節はずれの暑い一日のことを。
 ぼくは、あの日の一コマ一コマを覚えている限り検証した。どこかに、狂ってしまった歯車の一部が落ちているはずだ。今の夢は現実だ。ぼくの経験しなかった現実だ。どこかで、ぼくはもう一人のぼくと入れ違いに、この世界の日常へ当然のようにして入ってきた。その部分を探すんだ。そこにぼくの帰り道があるのかもしれない。
 ぼくの探しものは意外とすぐに見つかった。もう一人のぼくが、夢の中でぼくに彼の記憶を見せてくれたおかげだと思った。
 もしここを出られたら、すぐに、あそこへ行ってみよう。もしかしたら、ぼくがもどる道が見つかるかもしれない。


 あれからほどなくして、ぼくは、収容所から五十キロほど離れた市立病院に運ばれ、手当てを受けた。入院中、牛顔のリーダーがやってきて、前例にない「出張面接」を受けたぼくは、晴れてあの収容所から出られることになった。
 そして、二週間後の今日、ぼくは退院することになっていた。病院には、じんのすけを連れた母さんと、庄田博士が来てくれていた。母さんは、あれから何とか落ち着きを取りもどし、クローンみたいな存在のぼくとでも、やっていこうという前向きな姿勢に変わってきているらしく、仕事が落ち着いたら、家に帰ってくるらしい。
 ぼくが刺されたあの日、姿を見せなかった肝心の父さんは、すっかり「庄田教」に傾倒してしまったらしい。もっと大きな仕事をするために、委員会の命を受けて、海外のやせた土地をウンコ堆肥で改革するべく、あのときにはすでに行ってしまっていたのだと、母さんがぼくに話してくれた。
 じんのすけもすっかり元気を取りもどしていた。
「じんのすけも大したことなくて良かったね」
 ぼくがほほえむと、
「なんかぼくのせいで大変なことになっちゃったみたいで……」
 と、小さくなった。そんなことはないよ。ぼくは君のおかげで、強くなれた気がする。
「じんのすけは、母さんと一緒にいるの?」
 もともとは、死んだぼくや、母さんこそが真の飼い主だ。じんのすけはきっとぼくを飼い主だとは、もう思っていないだろう。
「ぼくは、サトくんについて行きます!」
「それってオレのこと?」
 もう一人のぼくではなく? 意外な言葉にぼくの胸は熱くなった。
「深い事情は、ぼくも聞きました。でも、やっぱりぼくにはサト君がいないと!」
 ぼくたちは、母さんと博士に別れを言って、車に乗り込んだ。タクシーで駅まで行った後は、電車に乗って東京まで帰るのだ。母さんが、「元気でね。しばらくしたら、またはじめからやり直しましょう」と手をふった。けれどぼくには、もうこれきり、博士や母さんには会えない予感があった。
 さよなら。
 ぼくはそうつぶやくと、じんのすけを抱きしめた。タクシーはゆっくりと病院を後にした。しばらくの間、ぼくは黙って窓の外を見ていた。民家と、畑とが交互に後ろへ飛んでいく。所々、砂漠みたいに何も生えていない畑があるのが目立つが、それでもまだぼくが住んでいる町とは比べものにならないほど、大地は生命にあふれている。
「サト君、庄田博士のこと、どう思ってますか?」
 おもむろにじんのすけが口を開いた。
「正直、博士のやっていることがすべて正しいのか、いまだにわかんないんだ」
「ぼくは、あれほど地球の未来のことを真剣に考えている人を知りません。地球あってのぼくらの命でしょう?」
 じんのすけは真剣な顔をしている。
「それにぼく、見ちゃったんです、博士が、自分の生死を決めるくじ引きをしているのを。たぶん毎日です。囚人にばかり、いけにえを強要しているわけではないんです」
 ぼくは少しの間言葉を失っていた。そして気づいた。丘の上で、ぼくにエコスフィアをくれたときに博士がとった、不可解な行動のことを。あれがそうだったんだ。
「だから、あんまり、悪く思わないでください」
「うん……」
 ぼくはそれだけ言って、黙りこんだまま、車窓からの景色を引き続きながめていた。
 単調な景色に飽きると、ぼくは正面に向き直り、あらためてじんのすけを見つめた。じんのすけは、だれにもらったのか、かわいらしいリュックサックをしょっている。
「どうしたの? こんなかわいいの、しょっちゃって」
「そうそう、これは庄田博士からの預かり物なんです。サト君がこれを必要になるときが来るからって」
 じんのすけは、ぼくに、中を見てみるようにうながした。ビニール袋に入った、ドッグフードようなものがたくさん入っている。
「何だ、これ?」
「ぼくが、前に収容所にいたときに、間違えて食べちゃったのと同じものです。博士に言われたんです。前にこれと同じものをどこかで食べなかったかって。目の前に見せられて初めて気がつきました。収容所の牧場に落ちているのを見つけて、食べたことがあったんです」
「食べると、どうにかなるの?」
 そう聞いておきながらぼくは、すぐに気がついた。じんのすけの答えは、それを確認するような形になった。
「人間の言葉を話せるようになったんです」
(人間の言葉を話せるようになるんだ)
 じんのすけは、博士から伝え聞いたことをそのままぼくに教えてくれた。
 このドッグフードのように見えるものは、牛顔の肉骨粉でできた薬だとじんのすけは言った。遺伝子組み換え生物の遺伝子は、それを食べたものの体内に吸収されることを知った博士は、その性質を更に増幅させて、この薬を作ることに成功した。つまり、牛顔の遺伝子に、ウイルス性を持たせたということらしい。こうすれば、牛の卵細胞に、いちいち手術を施して、母牛から牛顔を産ませなくても、普通の牛がしゃべれるようになるのだそうだ。劇的に身体のつくりまでは変化しないが。
「これが、ぼくに必要だって言うのは?」
「さあ。でも、きっとわかるときが来ますよ」


 ぼくは自宅にもどると、すぐに、学校へ向かった。背中にはランドセルをしょっている。一刻も早く、もう一人のぼくの記憶と、ぼくがここへ来てしまったなぞを解き明かしたい、その一心だった。ぼくの横にはじんのすけがひかえていた。ここへ来た理由もじんのすけは承知の上だ。じんのすけは、どこまでもぼくについていくと言ってくれた。
 ここしばらくは、雨が降る日が多かったらしく、水はけの悪いグラウンドには大きな水たまりがいくつもできていた。
 梅雨の中休み。今日は青空がのぞいている。それでも何だか薄ら寒くて、ぼくはTシャツの上に、長袖のシャツをはおっていた。ぼくらは、水たまりを避けるように、ジグザグと歩きながら、校舎の昇降口へと向かった。
 平日の放課後だ。ほとんどの生徒は、もう帰宅していて、校舎の中には人気がなかった。聞こえるのは、吹奏楽部が練習している楽器の音くらいなものだ。廊下がやけに広く見える。何となく、知っている人には会わなければいいと思いながら、ぼくは、一階の男子トイレに入った。
 正面には、個室がいくつも並んでいる。ぼくは、指をさしながら個室の数を数えてみた。六つある。やっぱりだ。そしてぼくが帰る道がまだ、ここに開かれていることを確信して、心を決めた。
「じんのすけ、本当に後悔しない?」
 最終的な確認をした。じんのすけはうなずいた。
「じゃあ、入るよ?」
 ぼくはじんのすけを胸に抱くと、一番奥の個室に向かって歩き出した。その個室の前に立ち、深く息を吸う。意を決して中に入り、ガチャリと鍵を閉めた。立ったままで辺りを見回すが、何事もない。
「やっぱ、ウンコしなくちゃだめか?」
 最悪そんなこともあると思っていた。だからさっきもよおしたときは、がまんしておいたんだ。ぼくは、ランドセルの中から、理科の教科書を取り出した。便意をうながすには本に限る。ズボンを下げ、便座に座った。そして、じんのすけをひざに乗せ、教科書を開いた。
 それから、十数分後のことだった。ちょうどことが終わったと思ったとき、右側の扉が、ガタガタと音をたて始めた。
「サト君、地震ですよ」
 じんのすけが不安そうにぼくを見る。
「大丈夫、予定通りだ」
 思った通り、ゆれは、すぐにおさまった。後はここを出るだけだ。ぼくは再びじんのすけを抱いて、扉の外へ出た。
 トイレの中にはだれもいない。ぼくはゆっくりと、トイレの出入り口へと向かう。そして、その扉を開けて廊下へ出るときもう一度、中をふり返った。
 個室の数が、五個に減っていた。あっちの世界への扉は、今消えたんだ。


 校舎には、生徒たちがもどってきていた。いや、今のぼくにだけ、そう見えたに過ぎない。ぼくは、あの日の学校にもどってきたんだ。たぶん。
 ぼくは、康平たちが待つ、昇降口へと急いだ。康平が慎太郎とじゃれあっているのが見えた。康平がぼくに気がつき、慎太郎から離れると、下駄箱から靴を取り出し始めた。
「ゴメンゴメン、クソしてたから、時間食っちゃった」
 ぼくは、当たり前のようにそう言った。
「どおりで遅いと思った」
 康平はそれよりも、ぼくが胸に抱いている犬のことが気になるみたいだった。当然といえば当然だ。
「その犬、便所で拾ったのか?」
 冗談で言ったのだろう康平のその言葉に、
「そうなんだ。いいだろ?」
 と答え、じんのすけを土間に下ろした。
 校庭は、あの日のまんま、暑かった。思わず、着ていた青いストライプのシャツのそでをまくりあげる。そして、康平が言った。
「暑いなぁ、アイスでも食わねーか?」


 その日の夕方、ぼくは、玄関で母さんの顔を見るなり、母さんに抱きついてしまった。
 なつかしさでぼくの胸はいっぱいだった。
「な、何なのよ、いきなり。いい年してやめなさい」
 その後も、何かと母さんについて回るぼくの態度を、母さんは気味悪がっていたけれど、じんのすけを連れてきたことがあったから、そのせいでおべっかを使ったんだと思ったらしい。
「こんな立派な犬、捨て犬のわけがないでしょう。今頃飼い主が、捜しているわよ」
「生き物を飼うっていうのは、簡単なことじゃないんだぞ」
 父さんも帰ってきて、ぼくは二人にさんざん言われたけど、飼い主が見つかるまでっていうことで、警察に届ける条件つきで、じんのすけはこの家にいてもいいことになった。 
 母さんたちのいう「飼い主」は永遠に見つからないのに。ぼくは、じんのすけに目配せをした。普通の犬のふりをしているじんのすけは、せいぜいお行儀の良い犬を演じていた。
 こんなことが、ここ最近のぼくの最大の事件だと言ってしまえるくらい、ぼくの日常は、穏やかに過ぎていった。この世界には、あの奇妙な牛の顔をした人も、グリーンマネーのグの字だって、出てくることはなかった。
 けれど、ぼくの机の上に飾ってあるエコスフィアや、博士にもらった薬、そしてじんのすけ。それらが今、ぼくのそばにあって、あれは夢なんかではなかったことを雄弁に物語っている。そしてぼく自身も、以前のぼくではなかった。
 トイレで、自分のウンコが水の渦に巻かれて穴の中へ消えていくのを見るたび、その行方を思った。給食で出る残飯の山を見るにつけ、砂漠のように荒廃していく畑のことを思った。そして、それらを見た後にいつも何者かわからない、焦燥感に襲われた。


「もったいないよ」
 ぼくの口から思わずもれたその言葉が、教室に響き渡った。
 もともと、好き嫌いの激しい慎太郎が、細かくていちいち取り除くことができなくなっているニンジンが気にくわずに、その日のカレーピラフを全部残したのだ。それを見ての一言だった。
「何だよ、それじゃあ、お前が食えばいいだろ!」
 仲がよかったはずの慎太郎が、ぼくに逆切れした。慎太郎は、食器をぼくに突き出して、ぼくの机の上に投げ出すと、ぷいと、向こうへ行ってしまった。そして、みんなに聞こえたはずのぼくの一言に賛成してくれる人は、だれ一人としていなかった。
 本当のことを言っただけだった。ぼくだって、見るに見かねて、思わず出てしまった言葉だったんだ。それなのに。ぼくたちはそんな程度の友達だった。初めて気がついた。
 ぼくは二度と、自分の思いをみんなの前で口に出すことはしなかった。ぼく一人が何を言ったって、何も変わらない。ただ、ぼくが独りぼっちになってしまうだけのことだと思ったからだ。


 ぼくは今、マンションのベランダで、エコスフィアを右手に、空に透かして見ながら考えていた。梅雨のさなか、低い雲が垂れこめたこの空のように、ぼくの心は晴れないままだった。左手には、博士にもらったドッグフードみたいな薬を握っている。足元には、じんのすけがいて、ぼくを見上げていた。
 自分の世界に帰ってきて、ぼくは正真正銘オリジナルのぼくのはずだった。それなのに、今のぼくは本当のぼくではない。本当のぼくを声も高らかに叫んだら、たちまちぼくの居場所はなくなってしまう気がする。
「じんのすけ、オレ、本当はあっちの世界にいた方がよかったんじゃないかな?」
 じんのすけは、ぼくといるときだけ、人間の言葉で話をする。
「後悔しない? ってきいたのはサト君の方じゃないですか。何でそんなこと言うんです?」
 そうだよな、だけど……。
「じんのすけ、じんのすけはこの薬、飲んでよかったと思ってる?」
 ずっと気になっていた。これがいつかぼくの役に立つって言った、博士の言葉が。
「うん。サト君とこうして話ができるから」
 博士はぼくがこっちの世界の人間だって知っていたんだろうか? そして、ぼくがこっちへ帰ってくることを見越していたんだろうか? 
 突然、ぼくの中に、ある衝動がわきあがってきた。ぼくは何度も、その衝動を心の中で飲みこんだ。
「これを食べたら、本当にどんな動物でも、ぼくみたいに人間の言葉を話せるようになるのかなぁ?」
 じんのすけが、つぶやくように言った。その言葉を受けて、ぼくはとうとう飲みこんだ言葉を口から出してしまった。
「これ、牛に食わせてみようか?」
「え? サトくん、それ本気で言ってるんですか?」
 じんのすけが目をまんまるくさせて、ぼくを見た。
「ははは、冗談だよ、冗談」
 だけど、今の一言が合図のように、ぼくの心の中は、雲ひとつない青空のように透明になった。ここで立ち止まって考えていたって仕方がないんだ。うそでぬり固められた居場所なんて、こっちから壊してやる。
「じんのすけ、ぼくら、今から出かけなくちゃなんない」
 じんのすけは、ぼくの顔を不思議そうに見上げている。
「慎太郎のところへ行ってみる。それから康平のところへも」
 たった一度、皿をつき返されたぐらいで何だっていうんだ。ぼくがあそこで見たことは、そんなことで簡単にあきらめるほど、軽いことではないはずだ。
 ぼくが見たこと、聞いたこと。それを全てあいつらに話してみよう。ぼくらは、人間だけを大切にするんじゃなくって、もっと大きなものを見なくちゃいけないんだって。
信じてくれるかどうか、わからない。だけど本当にぼくが感じた大切なことだったら、友達なんだ、きっと、わかってくれる。
 ぼくは庄田博士の顔を思い浮かべた。こっちの世界だったら、博士みたいな大それた作戦に出なくたって、まだ間に合うかもしれない。ぼくの大事な第一歩。博士は笑って応援してくれるだろう。
「行くぞ! じんのすけ!」
 ぼくは、エコスフィアを手に持って、玄関を飛び出した。
 エレベーターを降り、マンションから外に出る。あたりがにわかに明るくなって、見上げると、さっきまで厚い雲に覆われていた空が割れ、すき間から矢のような太陽の光が、ぼくの真上に降りてきていた。
 エコスフィアがぼくの心の中で、太陽の光を受けて輝いている。
 ガラスの外へは決して出られないぼくらが今できること、それは何だろう? 
 ガラスの中の水はもうすでに半分にごってしまっている。だけど、完全ににごってしまう前に、ぼくらは今、全力を尽くして生きていかなければならないんだ。
 ぼくはそう確信して、走り出した。
(了)
(初出:2012年05月)
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登録日:2012年05月31日 13時40分

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